聖地を求めて
放浪記番外編
其の一
私は20代前半にカウンターカルチャーに大きく影響され、”旅”に出た。自分にとっての聖地を探す旅がはじまったのだ。放浪記本編はこちら。
'88年に八ヶ岳で「いのちのまつり」というイヴェントがあった。このまつりは八ヶ岳の山の中で参加者がキャンプをしながら音楽やアート、そして各種ワークショップなどを楽しむイヴェントだ。Love&Peaceが根底にあるイヴェントだ。私はそれを後になって知ったのだが、カウンターカルチャー系の人やアーティストが主催したイヴェントでいわゆるヒッピーカルチャー的要素が強くて面白いイヴェントだったらしい。
私は翌年から半年に渡ってインドを放浪していて、帰ってきた年の夏にに、今度は鳥取の大山で同じ系統のまつりが開かれることになったのでそこへ行くことにした。当時カウンターカルチャーに傾倒していた私は、髪を伸ばし、髭を伸ばし、ガンジャ(葉っぱのこと)や”L(エル、アシッド・・・詳しくはこちらを参照)"、東洋思想、旅にどっぷりつかっており、”聖地”めぐりみたいなものにすっかりはまっていた。時代遅れのヒッピーといった感じである
大山へはどういうわけかヒッチハイクで行こうと思い、東名高速の用賀インターで車を拾いとりあえず旅仲間のいる名古屋に向かった。名古屋でその友人と語り合い、熱田神宮で”梵(葉っぱのこと、インド好きの仲間内では葉っぱのことを梵と呼んだ)”を決めたりして過ごし、大阪まで電車で移動し、大阪から再度ヒッチハイクをして西へ向かおうとした。ところが大阪ではまったく車が拾えず、ヒッチハイクは無理だと断念し、大山行きはやめ、紀伊半島を回ることにした。伊勢神宮にたちより、平和を祈願し、そのまま伊勢・志摩をめぐり帰途に着いた。
結局大山には行けなかった。今思えば長髪髭もじゃでヒッチハイクして東京から鳥取まで行ってこようなんて無茶な話だが、そのころはまったく問題ないと思っていたんだな。その後東京に戻りアルバイトをしながらバンド活動していた。その間、私は時間があるごとに神社や寺院をめぐり、山に登り、瞑想をし、いわゆる行者の聖地巡礼のようなことを繰り返していた。祈ることと言えば世界が平和であるように、であった。
翌年今度は青森の六ヶ所村でまつりが開かれることになった。今度はヒッチハイクではなく電車で行くことにした。テントを担いで普通電車を乗り継ぎ六ヶ所村に着いた。
会場は穏やかな丘陵にある牧草地で、会場ののまわりには来場者の無数のテントが輪のように並んでおり、大きなステージが設営され、各地から様々なアーティストがやってきていた。会場には日本のヒッピーーカルチャーの先駆者たちが長髪を無造作に束ね旅の途上にいるかのようないでたちで姿を見せていた。メディアには取り上げられない所謂アンダーグラウンド、カウンターカルチャーの著名人たちが集まり、手作りの料理を食べ、音楽を楽しみ、梵をまわし、平和を祈るといった平和なイヴェントが行なわれた。
会場で私は知人に”L”を分けてもらい飛んだ。しかしちょっと私の中に不調和がありバッドトリップになってしまった。けっこうまいった。イヴェント自体は魅力的なものだったが自分がバランスを欠いていたのでバッドを招きしんどい思いをした。これは今考えても残念だ。バッドの理由は深い話なので割愛するが自分というものをしっかり見据えていないとバッドはやってくる。これは日常も非日常も同じで調和が大事ってことだね。
このまつりからは2泊か3泊で戻ってきた。いっしょに行った友人は別の旅仲間と放浪を続け、しばらく能登にあるコミューンに身を寄せていた。私はその後東京で日々を過ごしていたが、その次の年、ある不思議な出来事にあい、長年延ばしていた髪を切り、髭をそり、普通に働く道を選んだ。その不思議な出来事についてはいつかこのブログで書こうと思う。まあそんなわけで普通に会社勤めを始めるというそれまでの自分には考えられなかった道を選び、私の”旅”はいったん終わったかのように思えた。
其の二
インドを放浪し、帰国後アルバイトをしながらバンド活動をしていた。と同時にインドでの様々な発見や洞察そしてドラッグ体験などから精神世界に深く興味を持ち、日々瞑想をし、寺社があれば平和を祈り、山に登り、大いなる自然の力・波長に自分を共鳴させ意識を開き高めようとしていた。しかしバンドの仲間には私はいささか”飛びすぎ”ておりつていけない状況をまねいていた。私はだんだん探求すること以外に目もくれなくなり、いつしかバンド解散させてしまい、ひたすら祈りと瞑想の日々を送た。インドのヨガ行者やサドゥ(遊行者)に憧れ、自分は出家し聖地をさすらい山にこもり祈りと瞑想三昧の暮らしをしたいと思うようになっていった。
そうこうするうち日本、それも東京の暮らしというものは酷い大気汚染の中で体を酷使することであり、人間が本来持っている自然に共鳴し宇宙と一体となって無為自然に生きるにはあまりにもかけ離れたものであり、我慢できないものになっていた。もうその頃になると私は”飛びすぎ”ていたのかもしれないし、それだけ現代社会というものに絶望を抱いていた。そして私はあるとき、みんな捨ててインドに行きヒマラヤの山中で修行者として生きることを望むようになった。何もいらないと思った。ただただ穢れた現代文明から離れたかったし宇宙と一体になり無為の境地にいたいと願った。だから私は再び霊性の大国インドへ行こうと思った。それが私の”正しい”道だと思った。
インド行きを決心してから私は日々瞑想と祈りに明け暮れた。インドのビザを取得し飛行機のチケットも取った。もう帰らないつもりだった。だから両親に自分の決心と最後のあいさつをしようと思い、話をする時間を持った。自分の一人息子が24歳で出家しインドの山奥で暮らしたいなどという話を聞いた親は驚き必死の説得に出た。今思い出してもあれほど親と真面目に話し合ったことはない、後にも先にもだ。その話し合いで私は”正しい”と思っていたことが、どこか違っているかもしれないと思い始めた。しかし、ではいったい自分がどうしたらいいのかはわからなかった。私はそのとき、自分がいつのまにかあまりに孤独で寂しかったことに気付いた。涙が落ちた。でも、何をどうしたら良いのかまったくわからなかった。
数日後私はなぜか先祖の墓参りに行くことにした。私は般若心経を読経し、先祖の墓に向かい私のしようとしていることが間違っているのなら教えてほしい、道を示してほしいと心から祈った。5月の晴れた暑い日だった。
墓参りからの帰途で私は異変に気がついた。突然着ていた服の胸ポケットから炎が出た。服が燃え出したのだ。私はとっさに服を脱ぎ火を消した。確かに胸には100円ライターが入っていてそのオイルが漏れて発火したらしいのだが、胸ポケットに入れていたライターが突然燃え出すなんて話は聞いたこともない。私は混乱していた。何事が起きたのかと。次の瞬間私はわかった。私は間違っていると。
そしてアパートの部屋に戻った私は、それまでの自分を改めなくてはいけないと感じ、長年延ばした髪を切りに床屋に向かい、髪をばっさり切った。髭もそった。私に道など見えてなかったがただただ導かれるようにそうした。それまで自分では気付かなかった重く硬かった心が解き放たれたような感じがした。聖なるものを求めるのにインドに行く必要などなく山にこもる必要などない、出家する必要などなく、今生きていることに感謝し精一杯生きることが尊いのだと知った。私は神仏によって守られていることにも気付いた。
その晩私は考えた。それまで探求することに夢中になり道を求めてきたけれどいつの間にか道から外れてしまっていたんだと。そして家を捨て家族を捨てすべてを捨ててヒマラヤにこもるなどというのは聖なることどころか罪深いことなんではないかと思った。そしてそうした罪深いこの魂が先祖の導きにより過ちに気がついただけでもこの上なく幸せなことなんだと思った。だからこの命がこの晩に終わろうともそれでもかまわないと思った。私はすんでのところで目覚めることができたのだから。そうして私は不思議な安堵感、今までに感じたこともないほどの安堵感につつまれ眠りに落ちた。その夜私は夢を見た。それまでの人生で見たこともないほど幸福で安らかな夢だった。私は子どものように無心に笑い、自分の笑う声で目が覚めた。・・・朝になっていた。私は生きている。私はまた生きることを与えられたのだ。
それから私はそれまで求めてきたものはもう必要ないと気付き、多くの人にとっては当たり前かもしれないが、普通に社会に出て働こうと思った。
これは後から知ったことだが、私がインドへ向かおうとした飛行機はタイのバンコクでトランジットするチケットだった。その予定でタイに行ってこれまた予定していたカオサンロードに向かったとしたら、私は当時タイで起こった王宮周辺のクーデターに巻き込まれていたかもしれないのだ。TVのニュースでそのことを知った。私は救われたのだと思った。
苦しく辛い探求の旅は終わったのだと思った。
其の三
髪を切り髭をそってすっかり短くさっぱりとした姿になり、仕事を探し、その夏から会社勤めをすることになった。私はそれまでの自分とはまったく違った生き方をはじめたわけだ。私はそれまで探求していたもの、求めていたものは終わったのだと思っていた。
社会人一年生であれば誰でもそうだろうが、会社ルール、社会のルールというもをまったく知らなかった私は一からそうしたことを覚えていった。私を変えることになった”ある出来事”以来私は社会に出て普通に働き一生懸命生きればそれで良いと思うようになり、それまで自分が大事にしていた価値観は捨てたかに思えた。確かにその頃はそうした過去の自分に封印をし新しく生きるんだと思っていたのだ。だから社会に順応するために自分の価値観や気持ちよさなどはまったく省みない日々が始まった。
そんな中で私はよくあるように上司にしかられ指導され会社というものについて学んでいった。当時私が何かを判断する基にしていたのは”どうあるべきか”という考え方だった。そこに”私はこうしたい”という気持ちは締め出すようにしていた。
歳月は流れ仕事にも慣れ自分の仕事にも自信とプライドを持つようになっていった。私は過去の自分に決別し新しく生まれ変わったのだと思っていたし、その当時としてはそれが私にできる最善の事だった。だが、よく仕事の仲間から「それで楽しいか?」とか「気持ち良いのか?」といった質問をされたりした。私は会社勤めするからにはそうしたことは二の次三の次にしていたからそうした質問にはいつも答えあぐねていた。
そして更に何年かが過ぎた。あるときは仕事は順調で、またあるときは苦しかった。そうしたことは会社員なら普通にあることだろうし、苦しいことは自分の成長のための試練だと思って日々を過ごしていた。
あるとき私は原因不明の体調不良に襲われた。どこが悪いと言う訳ではないが体がだるく仕事に行くのがしんどくなったのだ。病院に行ってもどこが悪いということはなく原因がわからない。仕方なく行ってみた心療内科で、病気ではないが”鬱状態”と言われた。当時私は仕事で行き詰まりを感じており、プライベートでも問題を抱え八方塞だった。”鬱”なんていうものは縁がないと思っていただけに驚いたが、確かに調子は悪かった。
それまでは割と順調だった会社勤めだったが、その頃あたりから私の内面にある変化が起き始めていた。だが体調不良がもたらすメッセージと変化については当時まだ何も気がついていなかった。
其の四
会社勤めをはじめて私はそれまで持っていた価値観や志向を捨てた。そして社会人として生きる中で日々の忙しさの中で次第に自分の本当に望むものや求めているものなど省みなくなった。そして会社の中で競争原理に飲み込まれ合理性ばかり考えるようになっていった。
長く勤めるうちに、仕事にも自信を持ち始め、仕事に関しての自分なりの考えも持つようになっていった。しかし私の持っていた自信はだんだんと傲慢さに変わり、会社や上司に対して否定的な思いを持つことも多くなっていった。そうすると今度は仕事がうまくいかなくなったり、同僚と争ったり、ぎくしゃくするといった状況が生まれるようになっていった。しかし私はそうしたことを強引に解決させなんとも不調和な感覚を抱きながら仕事をするようになった。勤め初めの頃は誰からも学ぼうという謙虚な姿勢があったが、そうした姿勢はいつの間にかなくなっていった。しまいには尊敬できる人などいなくなっていった。
そうしていつのころからか体調不良が起こるようになっていった。体調不良といっても内科的なものではなく、激しい慢性疲労のため会社に行くのが困難になるといった状態だった。はじめの内は一日休めばまた回復して会社に行けていたが、次第に疲労感が抜けなくなっていった。そして私は数度の休職をした。過度の疲労のため労務不能になったのだ。その頃には誰かと対立したり争う力などなくなっていた。
労務不能という状況は精神的にもきつかった。どこが悪いというわけでなく”鬱状態”が続いた。体力は低下し、現実は重いものになり、希望というものを失っていった。この鬱と体調不良の日々についてはこちら参照・・・重いことばかり書いているのでちょっとどうかと思いますが・・・(^^;
そして休職を数度繰り返し、それでもなんとか会社に行っていたが、ある日「もう限界まで頑張った。だけどもう無理だ」と思い会社を辞めることにした。私はあらんかぎりの力で会社に行ったがもう限界だとわかった。
こうして私は会社を辞めた。そして現在に至る。会社を辞めて私は多くを考えた。会社に入る前の放浪と探求の日々、そしてそれをすべて捨てて会社人間として過ごした日々、それは20代後半から現在にたるまでの自分の過去を振り返る機会となった。
20代前半の頃私は憧れ求めていたものがあった。それは精神・魂の探求であり当時の私考え方は現実からは遠くはなれたものだったが、求めていたものの裏側に潜むものは、実は愛と安らぎだったのかもしれない。そして会社勤めでそれらをいったん捨てたが、捨てたものの中には捨てる必要のないものが沢山あった。瞑想して静かにすごすこと、日々を振り返り謙虚になること、そしてなにより自然を愛し調和すること。そうしたことは捨ててはいけなかったのだ。そうしたことを捨てて日々の忙しさに飲み込まれ自分の中心を失った私には人生の不調和と体調不良がもたらされた。それはまるでメッセージのようだ。今思えばそれは”自分の生き方を見つめなおしなさい、人生に愛と調和と取り戻しなさい”と言っているように思えた。
其の五
12年勤めた会社を辞め、私は自宅療養をする中で多くのことを考えた。過去を振り返り検証するかのように思いをめぐらした。旅と音楽にあけくれた20代前半、旅をし、導師を探し、瞑想をし、山に登り、求め続けた日々、人生の方向を大きく変え、仕事に打ち込みいつしかバランスを失ったた20代後半から30代前半、そして体調を崩して人生のどん底のように感じていた日々、そうれらの出来事やそのことが示しているメッセージや教えを振り返る作業が続いた。
そうした中で、今体調不良という心身の不調和がもたらした意味を考え始めた。そうしてその苦しくどん底にいるかのような日々は新たな再生の始まりなのだと感じ始めた。会社勤めの中で心身の調和を失い一つの人生のサイクルが終わったことを感じていた。そしてこの絶望し光を失った底打ちの状態から再び新しいサイクルが始まりつつあることを感じた。
この新しいサイクルでは自分の人生を肯定的な思いに従い構築していくこと、人を思いやり人と和し、人のために尽くすこと、そして愛することを学び実践していくことなのだと思うようになった。いやそうしたことは生まれてからずっと学ぶべき事としてそこにあり続けたのだろうけれど、それをはっきり意識したことはなかった。かつて果てしない憧れを抱いた聖地を求める思いは今も変わらない。人の魂の中にある尊いもの、人と人のかかわりの中にある尊いもの、そうしたことの探求は終わってはいなかったのだ。ただ、そこに”愛””調和”を忘れずに歩んでいかなくてはいけないことにようやく気付いたのだ。
だから若い日に見た聖なるものへの憧れは今も胸の中に生き続けているけれど、それは外に求め、誰かに求めるものではなく、自分の心の中、魂の中に求めるものだとわかってきた。そして今私は道は紆余曲折し、この先も様々に曲がりくねって行くかもしれないが、変わらずただただ探し求めて行くのだと信じている。今はまだ苦しく果てしない道のりに見えるけれど、人生は祝福されたものであり、愛と平和の光をかかげて進んでいくのみなのだと確信している。この先も私の魂の聖地を求める旅は続いていくのだから。放浪は終わってはいないのだ。
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